| koshi 的个人资料koshiのお部屋照片日志列表 | 帮助 |
|
|
2006/7/26 方広寺鐘銘事件慶長19(1614)年7月26日,大坂の陣の直接的原因となったと言われる京都方広寺の鐘銘事件が起こる。
有名な
国家安康 君臣豊楽
というものである。
つまり,家康を真っ二つに両断し,豊臣を君として栄える,ということだ。
もともと方広寺は慶長元(1595)年,秀吉が建立した天台宗の寺で,南都東大寺の大仏に倣って京都大仏を作らせたものの拙エントリ「地震加藤」で述べたように翌年の大きな地震で頭部が崩落,国家鎮護のためにあるのに汝の身すら守れぬのか,と秀吉の怒りを買い,その後秀頼によって再建されたものの慶長9(1604)年に放火により消失,という豊臣家にとっては御難続きの寺であった(この工事の物資輸送ために掘削されたのが森鴎外の「高瀬舟」で有名な高瀬川である)。 徳川幕府としては,長期安定政権の為にも摂津河内の一大名に落ちたとはいえ豊臣家の存在は邪魔であり,まずは秀吉が大坂城に蓄えた膨大な黄金を消費させることを企てた。 方広寺の再建はその最たる例であろう。 そして,家康(正確には謀臣本多正信-正純父子だろう)が難癖をつけた前述の鐘銘の一文であるが,どう不可解なことが多い。 まず,この工事の責任者は,豊臣家の大坂家老ともいうべき片桐且元である。 彼はやがて淀殿-大野治長一派との反目により大坂を退陣し東軍に属するのであるが,この時点では豊臣家にとって無二の忠臣である。 徳川に突っ込まれるような紛らわしいものを敢えて命じる筈がない。 この銘文は名刹南禅寺の長老であった禅僧の文英清韓(1568-1621)によるものである。 当然のことながら清韓は罰せられ,駿府に送られた。 で,この清韓であるが,俗名は中尾重忠。 出身は伊勢国奄芸(安芸)郡三宅。 大坂の役の後に許されて,帰郷し津に住んだとも言われる。 また,この梵鐘を製作したのは鋳物師である辻越後守家種(1541-1615)。 出身は清韓と同様伊勢の津である。 ・・・ということは,たったこれだけのことから,この事件の黒幕が見えてきたと思うのは私だけだろうか・・・。 当時伊勢・伊賀を領有し後の津城主となる藤堂高虎である。 近江出身で,浅井長政に仕えた後秀吉弟の秀長に仕え,やがて秀吉に取り立てられるも秀吉が衰弱しつつある頃から急速に家康に接近。 やがて,徳川の準譜代的な大名となった彼が背後で暗躍していたとしても不思議ではあるまい。 さらに深読みすれば,前述の通り咎められて駿府に送られた清韓は間もなく許され(狂言だったか??),鋳物師家種は翌年に没。 天文年間の生まれだから確かに老齢だが,口封じと考えるのはうがちすぎているだろうか・・・。 ただ,我が町の東照宮に,随臣として本多忠勝とともに木像になってもいる藤堂高虎の名誉のために述べておくが,乱世を生き残るために都度主君を替えるということは決して不道徳なことではなく,むしろ強かに生き抜いた証でもあると思う。 高虎は築城の名人と言われ,勢州津城の他にも伊賀上野,予州今治,同大洲,同宇和島といった各城の普請を行っている。 中でも,こうしたサイトを見ると今尚今治では慕われているのが伺えて実に興味深い。 2006/7/13 「地震加藤」410年前の慶長元(1596)年閏7月13日,深夜に京坂地方を大きな地震が襲った。
慶長大地震とでも言うべきものなのかどうか,震源は洛南伏見あたりだったと言われる。 余震が数ヶ月も続いたというから相当な規模の地震だったのだろう。 伏見周辺は殆どの建物が崩れ,圧死者は相当数に上ったと予想されるが,中でも豪奢を誇る桃山建築の代表たる伏見桃山城が壮麗な天守閣を筆頭に,全壊したことが記録にある。 伏見城には何と言っても秀吉がいた。 秀吉が卒したのは翌々年の慶長3(1598)年であるから,精も根も尽き果てた晩年ということになる。 自身の政権が自分が旧主信長の一族にそうしたように,自分の天下は一代限りでは,という予感に苛まれ,生きた空は無かったであろう。 そこへ,この大地震である。 誰かが混乱に紛れて自分を刺殺するのでは,という疑心暗鬼に駆られたとしても不思議ではあるまい。 この時秀吉がとった行動は,女装して城内の一郭に隠れる,という天下人にはおおよそ相応しからぬものだったらしい。 そこへ駆けつけたのが,秀吉の寵臣にして数少ない身内の一人である加藤清正である。 当時清正は,秀吉の勘気を受け伏見の自身の屋敷に閉門蟄居中であったが,武装して真っ先に駆けつけたので,たちまち勘気は解け,翌年再び朝鮮八道の総大将として渡海することになる。 秀吉の勘気の元となったのは,勿論石田三成による報告である。 三成としては,職務に忠実であったということで,朝鮮在陣中の諸将の経理が杜撰であったことは事実と思われるが,三成はこれで豊臣恩顧の武断派大名たちから顰蹙を買い,後の関ヶ原の役において,加藤・福島・浅野・黒田・細川といった豊臣系の大名たちから東軍に去られる,という遠因を作ることになった。 この話が「地震加藤」として後世に伝わるに至った。 この地震で知られているのは,建立から間もない方広寺の大仏殿が倒壊したことである。秀吉は, 「国家鎮護のために建てられたものが,我が身さえ守れぬのか」 と怒ったという。 方広寺といえば,秀吉没後に「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘に家康が言いがかりをつけ,大阪の役の原因となったことで知られているが,いずれにしても豊臣家に対してはよくよくよろしからぬ因縁の寺だったというべきか・・・。 司馬遼太郎著「功名が辻」には,この地震のエピソードが語られているが,果たしてTVではどうなるのだろう・・・。 2006/7/11 保元の乱今を去る丁度850年前の今日,1156(保元元)年7月11日,洛中賀茂川を挟んで壮絶な市街戦が行われた。
世に言う保元の乱である。 原因は,鳥羽上皇-後白河天皇と崇徳上皇による天皇の後嗣問題に摂関家が絡み,さらには源氏と平氏が絡むという,まさに政権が真っ二つに分かれた内戦であった。
乱の概要を述べると,それこそワープロ3ページぶんは喰ってしまうので,私が駄弁を弄する必要性は皆無であり,こちらをお読みいただければ天皇方・上皇方のラインナップも一目瞭然なので,ここでは幾つかの気になった点を述べてみたい。 鎌倉期に,これらの兵乱をもとにした「軍記物」が流行したが,「保元物語」の主役というか白眉は,何と言っても破れた崇徳上皇方に付いた六条院蔵人源為義の八男,鎮西八郎為朝の活躍であろう。
為朝はこの時弱冠18歳。 あまりの乱暴者ぶりに14の時,父の命で鎮西に追いやられるが,瞬く間に彼の地を席巻。 肥後の豪族阿蘇忠国の娘を妻にし,西国に鎮西八郎あり,と勇名を轟かせた。 上皇方の首魁である左大臣頼長に夜討ちを献策するが, 「それは,そちの如き者が鎮西での小競り合いに使う手であろう。いやしくもわが国を二つに分けて戦う未曾有の戦に於いては,堂々の兵を進めるべきだ。」 と,現場を知らぬ公家に一蹴されてしまう。 逆に,父と兄弟たちと異なり,唯一天皇方に付いた為義長子にして為朝長兄である左馬頭義朝は戦闘慣れしているので,逆に上皇方の籠もる白河殿に夜襲をかけてくる。 為朝の悔しさ如何ばかりか,と思うのだが,この時の頼長が実に滑稽である。
為朝の献策を蹴って,敵に同じ手を喰ったのでばつが悪くなり為朝のご機嫌をとろうとしたのだろう。 除目を行い,為朝に官位を与えようとしたのだ。 為朝は,怒るというより呆れたことだろう。 「今の鎮西八郎で結構」 と一言言い残すと,攻め寄せる太宰大弐平清盛の軍を一蹴。 入れ替わりに押し寄せた兄義朝の軍をも蹴散らす。 六人張りの強弓を楽々引いたという偉丈夫の為朝の弓勢は凄まじく,「保元物語」によると,義朝の郎等二人を串刺しにしたともいうし,相模の豪族大庭太郎景能は大腿部を射られ,生涯足が不自由になったともいう。
この時,為朝のつがえた矢の先には,獅子奮迅の働きをする兄義朝の姿があった。 今矢を放てば義朝を射落とすことができ,天皇方は総崩れとなる。 しかし,敢えて敵味方となった父為義と兄義朝の間には何らかの密約があるのではなかろうか,と為朝は深読みするのだ。 そして,僅かに狙いを外した矢は,義朝の兜の鉢に打たれた星(鋲)を削り,後方の柱へ深々と刺さる。 落馬寸前だった義朝は, 「そちの弓は,その程度か」 と負け惜しみを言うが,怒った為朝が今度は本気で兄を射ようと矢をつがえんとした時,白河殿の北の藤原家成邸に火が放たれ,奮戦した上皇方も総崩れとなる・・・。 為朝のことは,今年3月6日の拙エントリで述べたので,これぐらいにしておくが,ずらりと並んだ上記リンクの武家ラインナップを見て,とあることに気付いた。
上皇方の源氏は,河内源氏である為義父子を筆頭に,大和源氏の宇野七郎親治(敗戦後捕らえられ赦免),摂津源氏(多田源氏)である多田蔵人頼憲-盛綱父子(同被斬)と,畿内の武士たちだった。 対する天皇方の義朝と共に戦ったのは,下野国を本拠とする源義康-矢田義清父子(足利氏祖),尾張源氏の佐渡式部大夫重成(平治の乱で討死。父重実も参戦)といった東国勢の他,摂津源氏も紫宸殿の鵺退治で有名な源兵庫頭頼政や鳥羽上皇の北面の武士だった源光保(美濃源氏)も上皇方に付いた多田源氏と袂を分けた。
さらには,義朝麾下には「平家物語」や「吾妻鏡」において有名な面々が続く。 知っている限りに名を連ねてみると以下のようになる。 佐々木源三秀義(宇多天皇系近江源氏。子に定綱,盛綱,広高,高綱,義清)
熱田大宮司藤原季範(頼朝母の父,つまり外祖父) 千葉介常胤(桓武平氏,上総の豪族) 上総介広常(同上) 佐竹秀義(常陸源氏,秋田の殿様の先祖) 熊谷次郎直実(桓武平氏,武蔵国熊谷荘住人-現埼玉県熊谷市) 大庭太郎景能・三郎景親兄弟(桓武平氏鎌倉一族。後,景親は頼朝に従わず被斬) 平山武者所季重(武蔵七党の一つ,平山党党首。武蔵国平山城住人か) 海老名季貞(相模国海老名-現神奈川県海老名市-住人) 齋藤別当実盛(武蔵国長井荘住人。後平氏に付き,源義仲と戦い加賀国篠原合戦討死) 猪俣小平六範綱(武蔵国猪俣党。一ノ谷の戦いで平盛俊を討つ) 八田四郎知家(下総国八田荘住人。藤原北家流宇都宮氏一族) 根井行親(信濃源氏滋野氏一族。後に源義仲に従い,宇治・瀬田の戦いで戦死) 金子十郎家忠(平姓。武蔵国村山党。平治の乱では最後まで義朝に従うも生き残る) 首藤資通(藤姓。相模国藤姓山内首藤氏。頼朝挙兵に応じず後で投降した首藤経俊父か?) 河越三郎重頼(桓武平氏。武蔵国河越-現埼玉県川越市-住人。義経舅。子重房とともに頼朝に誅殺) 岡部六弥太忠澄(武蔵国岡部-現大里郡岡部町-住人) 狩野介茂光(藤姓南家流。伊豆国狩野郷住人。嘉応2年-1170年,伊豆大島に為朝を討つ。石橋山にて戦死) 東国武士団の超豪華ラインナップ,といったところである。
これらの武士たちの殆どが3年後の平治の乱を戦い抜き,さらには20数年後の治承・寿永の大戦まで戦った,言わば歴戦の勇士たちと言って差し支えないと思う。 つまり,この時期既に義朝は東国に基盤を置き,かなりの規模で武士団を作り上げていたことが伺えると思う。 つまり,頼朝を支え鎌倉開府の原動力となった東国武士団の基礎は,父義朝が築いていたということだろう。 ・・・ということで,例によって結構濃いエントリとなってしまった・・・。 2006/7/9 旧町名本日の天声人語(多分間もなく削除されるので,ぜひご一読を)にもあったが,我が町では先日「歴史的町名復活検討委員会」なるものが開かれ,無機的・機械的に付けられた町名に対して,かつての由緒あるものに直そうとする活動が始まった。
さらに,数年前から歴史的町名を記した道標を辻々に配し,少しでも旧町名を忘れないようにという配慮も為されてきている。 多くの城下町がそうであるように,我が町も近世初頭に藩祖伊達政宗の入封によって町割が行われ,多くの職人町が生まれた。 現在残されているものだけでも思いつくままに並べてみる。 荒町
石垣町 木町 車町 鉄砲町 南石切町 南鍛冶町 南材木町 南染師町 弓ノ町 ・・・といった具合である。
また, 荒巻-名前の通り荒涼たる牧場が有ったのだろう。旧市内北西部全域
大手町-お城を出て最初の町。まっすぐお城に向かって突き当たりに大手門があった。 追廻-お城のすぐ下。馬場があったので・・・。 遠見塚-弥生式土器が出土した古墳がある。 八幡町-八幡神社がある。本殿は国宝。 宮町-南北1km程の商店街。北の突き当たりに東照宮があることから。 なる歴史を感じさせる町名も現存する。 また,三百人町,五十人町,二十人町,二軒茶屋,連坊小路,一本杉町,八本松,北屋敷,太子堂,皿屋敷・・・といった具合である。 もしかすると,いずれこれらも消え去る運命にあるのかと思うとやりきれない。 以前,平成の大合併に関して述べたが,あの時同様市民の声は至って冷ややかである。 というか,全く関心がない,といったところだろう。 下手すると,上記検討委員会の活動が功を奏して旧町名が復活したら,名刺や免許証,会社の角封筒等に印刷された住所を古い住所に直さなければならないので,猛反対を喰らうかもしれない。 それに,例えば肴町57という住所より中央東3丁目2-7といった表記の方が垢抜けていて格好良い,などと思う人たちも多いことだろう。 地名というのは,一種の文化遺産である。 歴史と共に長い間民衆に伝えられてきたものであるだけに,その風土そのものを表すものと言っても良いかも知れない。 町の真ん中だから中央一丁目,官庁街だから本町一丁目は,付け焼き刃にもならないと思う。 町村合併同様行政上の問題であるならば,私としては論外である。 過去を振り返らず未来を見よ,という声も有ろう。 最もだが,未来を見るなら過去を知っていなければなるまい。 我が町とほぼ同じ歴史を持つ(若干あちらが古いが)金沢市では,大坂の役に活躍した武将の名(というか正式には官職名だろうが)を冠して,「主計(かずえ)町」を数年前に復活させたというし,豊後高田市でも旧町名が復活したという。 単なる懐古趣味などと言うなかれ。 地域を知り,地域に愛着を感じてこそ生活は豊かになるものなのだから・・・。 2006/7/2 以蔵のピストル橋本龍太郎元首相の訃報に驚いて,あちこちニュースを見ているうちに,こんなニュースにぶち当たった。
人斬り以蔵が,何とピストルを所有??? 中村半次郎(薩摩:維新後桐野利明,西南の役で戦死),河上彦斎(肥後),田中新兵衛(薩摩?)とともに幕末期に人斬りという不名誉な称号を貰った岡田以蔵が,何とピストルを持っていたという。 記事では,勝麟太郎(海舟)に貰ったのではないか,ということだが,なる程,考えてみると辻褄が合うような気がする。
・・・と,偉そうなことを言っても,私の知識は専門的な文献や踏査に裏打ちされたものではなく,せいぜい「竜馬がゆく」や「人斬り以蔵」等の司馬遼太郎の作品が根拠であるので,多分専門的に近世史を学習・研究された方には笑止千万であろうが,ま,書くのは勝手であるから,せいぜい吹かせていただこう(笑)。 脱藩した坂本竜馬が,幕府の海軍奉行並勝麟太郎に弟子入りし,築地の伝習所に入ることを許されたのは,確か文久2(1862)年のことだったと思う。 その年,勝が幕府軍艦順動丸にて上坂する際,竜馬と北辰一刀流桶町千葉道場の若主人である千葉重太郎(あとは高知の饅頭屋の倅だった上杉宋次郎-近藤長次郎)が同行した筈である。 その際,京阪での勝の護衛を竜馬は以蔵に頼んだので,その際に勝にピストルを貰ったとしたら有り得ないことではない。 しかもフランス製だったということが,幕臣勝から渡されたことの裏付けになると思う。 周知の通り,幕府を援護したのはフランスである。 一橋慶喜がナポレオン三世より軍服を贈られたくらいであるから,幕府とフランス(というか公使ロッシュ)の関係は緊密であった。 故に,以蔵の拳銃は勝に貰ったとされるのは,強ち嘘とは言えまい・・・。 この拳銃は,今月いっぱい高知市郊外の坂本龍馬記念館に展示されるということだ。 子孫による提供とのことだが,今までどう保管されていたのか聞いてみたい気もする・・・。 2006/6/27 清洲会議天正10(1582)年6月27日,尾張国清洲城に於いて織田家宿老たちによる『清洲会議』が行われた。
信長亡き後の戦後処理と後嗣決定がその骨子であった。 この時点で,織田家の遺領の相続権は三人にあった。 信長の長子信忠は本能寺の変の際に洛中の二条城で自害しており,二男の北畠信雄,三男の神戸三七信孝,そして僅か三歳の三法師(前記信忠遺児)である。 この中では,信孝が最も有力とされたらしい。 異母兄の信雄と比べても才気の点で優り,父信長の弔い合戦である山崎の戦いに唯一参加している。 天正10(1582)年時点で,織田軍団は6人の武将に率いられていたといえる。 箇条書きにすると以下の通り。 1.柴田勝家-越前・越中方面(前田利家,佐々成政)
2.丹羽長秀-若狭方面 3.明智光秀-丹波方面 4.羽柴秀吉-山陽方面(黒田孝高,山内一豊) 5.滝川一益-関東方面 6.河尻秀隆-甲州方面 このうち光秀は言うに及ばす,6.の河尻秀隆は一揆勢のために甲斐で討ち死にしている。
また,滝川一益は上州厩橋(前橋)城にて北条軍と対峙中で動けず(敗戦の責任で出席を拒否されたともいう),結局柴田,丹羽,羽柴に尾張以来の譜代とも言うべき池田恒興(勝入斎,信輝とも)を加えての4人が顔を揃えた。 勝家が信孝を協力に推したのだが,既に伊勢の豪族神戸氏に養子に出ていたことや,嫡系である三法師の正統性を主張する秀吉の考えが容れられる。 丹羽長秀は秀吉を協力に推したという。 おそらく,丹羽と池田には秀吉の根回しがあったのだろう。 戦闘能力は抜群の勝家だが,政治的な駆け引きでは秀吉の敵ではなかったということだろう。 この結果,織田家の本拠地とも言うべき尾張は信雄に,美濃は信孝に,光秀の遺領とも言うべき丹波は信長四男にして秀吉の養子である秀勝に,それぞれ分割された。 織田家当主となった三法師には近江坂田郡と安土城が与えられた。 勝家は越前を安堵と同時に秀吉の本拠地とも言うべき北近江を,長秀は若狭を安堵され近江二郡を,秀吉は山城を,恒興は摂津二郡をそれぞれ加増された。 畿内中央を抑えた秀吉が,いよいよ天下取りの主役として一気にスターダムにのし上がったということで,この清洲会議の意義は大きいと言えよう。 会議を終えた秀吉は三法師を抱き,並み居る武将たちの前に立ったという。 皆,三法師に会釈をして通り過ぎていく。 それを見たある者はこう言ったという。 「あれを見よ。誰もがあだかも羽柴筑前に礼をしているようではないか・・・」 翌年の雪解け期に賤ヶ岳の一戦を控えつつも,秀吉の天下はこの瞬間に約束されたと言える。 織田信孝-賤ヶ岳の戦い後,尾張国野間内海にて切腹。源義朝と同じ場所。 織田信雄-拙エントリ『常真入道』参照。 羽柴秀勝-この後間もなく夭折。 三法師-長じて織田秀信。関ヶ原の役当時岐阜城主。西軍に与し池田輝政(上記恒興二男,後の姫路城主)に攻められ落城。戦後処理で高野山に蟄居。間もなく没。 2006/5/3 おらが殿様本日,東北では二つの歴史的イベントが催される。
一つは,昨年ここで取り上げた岩手県平泉町(町村合併したのか??)の『藤原祭』,もう一つは山形県米沢市の『米沢上杉まつり』である。 残念なことに,どちらも行ったことがない。 昨年述べたが,藤原祭の方は折しも「義経」ブームの上にタッキーが呼び物の「義経東下り」行列に参加する,ということもあって,人口9,000人の町に何と180,000人が押し寄せたらしい。 また,『上杉まつり』の方は,本日がメインの「川中島合戦」が行われるということもあって,多数の観光客が訪れたことだろう(こちら参照)。 こんな時に,人混みや渋滞の大嫌いな私が行く筈が無いのである。 しかし,米沢=上杉,というのはいかがなものか・・・。 と常々思ってきた。 昭和45(1970)年正月,祖父に米沢の知人から来た年賀状を見せられたことがある。 それには,例によって白い袈裟で頭部を覆った上杉謙信の騎乗の姿が描かれていた。 折しも,前年の大河ドラマは海音寺潮五郎原作による「天と地と」だったから,10歳に満たない私は,これが上杉謙信ということを朧気ながらも知っており,その颯爽とした姿に思いを馳せたものだった。 が,「天と地と」を見ていたせいで,謙信の居城は生涯越後の春日山城であったことを知っていたので,何で米沢と謙信が・・・と子ども心にも思ったものだった。 月日がたち,米沢と上杉の関係を理解することができたものの,実は今でも米沢の人々が上杉謙信を贔屓にするのか,疑問に思う(勿論,勝手にそう思っているだけだが)。 熊本市民が加藤清正を,姫路市民が池田輝政を,金沢市民が前田利家を,福岡市民が黒田如水を,松江市民が堀尾吉晴を,そして我が仙台市民が伊達政宗を贔屓にするのは納得できる。 藩祖として町割を行い,城下の発展に尽くしたからだ。 しかし,米沢藩の藩祖たる謙信は,前述の通り越後春日山で生涯を終えた。 米沢にはただの一度も来ていないし,謙信一代に限って言えば,縁も所縁も無いのである。関ヶ原の役で西軍の主力を務めたことで会津百二十万石を失い,初の米沢藩主となったのは,謙信の養子である景勝であり,町割や普請を行ったのは家老にして軍師でもあった直江山城守兼続なのである。 米沢城跡の北西部にある歴代藩主の廟所には謙信の御霊も眠っている。 どのようにして,越後春日山城から会津黒川城(会津若松城-鶴ヶ城),そして羽州米沢城と移したのだろうか・・・。 ま,上杉謙信といえば,戦国最強の武将の一人であるから,それを冠とするのは確かに観光立国でも歴史立国でも有効だが, 「伊達政宗は仙台で生まれた」 などという, 「サッカーはブラジルが発祥」 と同様の誤った認識を導きかねないと思う。 ま,別に私が思うだけで,何の影響もなく,例によって只の大きなお世話様なのだが・・・。 と,いうことで,『上杉まつり』が終わった後の米沢に,明後日一泊で出かけることになった。 米沢名物といえば,何と言っても米沢牛,鯉,そして何と言ってもちりちり麺の米沢ラーメンである。 二日で二食,ラーメンを食してきたい,と考えている。 そして,銘酒『東光』や北隣の『高畠ワイン』や『蔵王スター』(さらに北の上山市)も味わってみたいものだ・・・。 それにしても,米沢は我等が伊達政宗の生誕の地なのに,見事に伊達氏関係の史跡を消し去ってしまっている。 北西部に,幼年期の政宗が学んだ虎哉禅師の資福寺が残っているようだが・・・(資福寺は政宗の移封に伴って,仙台に移り今も有る・・・)。 2006/4/30 常真入道本日4月30日は,源義経,足利尊氏,アドルフ・ヒトラー,そして,個人的にはその事故死が惜しまれてならないF1ドライバーのローランド・ラッツェンバーガーと,有名人の忌日となっている。
その中でも,歴史上あまり表面に出てこない人物について触れてみたい。 織田信雄-おだのぶかつ-1558-1630。 名を見て分かるとおり,織田信長の息子である(二男)。 同年の異母弟信孝よりも何日か遅く生まれたが,侍女が信長に早く届け出でしたため,二男となったという。 幼名茶筅丸。 父信長自らの命名だが,何でも茶筅髷が結えるくらい生まれたときに頭髪が生えていたから,とのことだ。 幼くして伊勢の豪族,北畠氏の名跡を継ぐ。 当主(というか養父)北畠具教は,信長に敵対したので,信雄の家督は体の良いお家乗っ取りだったのだろう(やがて信長・信雄に殺される)。 で,信雄であるが,信長在世中は軍功らしいものは何も伝わっていない,というか,私が知らないのかもしれないが,天正7(1579)年に独断で伊賀に侵攻し,地侍集団の激しい抵抗に遭い信長の不興を買ったことと,翌々年,丹羽長秀や滝川一益といった織田家精鋭を率いて,ようやく伊賀を制圧したことぐらいしか無いのかもしれない。 本能寺の変の際は,居城伊勢松島城にあって,隣国伊賀の国衆が不穏な動きを見せたので,弔い合戦どころではなかった,という説と,近江まで侵攻して何と父がその理財と叡智を傾けて建てた安土城を焼くという暴挙に出た,という説とがあるが,前者が正しいのでは,と思う。 伊勢衆の多くは,弟信孝や丹羽長秀とともに四国征伐軍として駆り出されていた,と考えられるからである。 その後,賤ヶ岳の戦いでは秀吉と組み弟信孝を討つも,その織田家を蔑ろにする独断に袂を分かち,家康を頼る。 その結果,起こったのが天正12(1584)年の小牧・長久手の戦い-つまり秀吉・家康唯一の戦いである(そして,局地戦では家康が勝った)。 ところが,秀吉の謀略にかかり単独で講和。 秀吉-家康の講和の布石として,見事に秀吉を助けることとなった。 秀吉政権下では父の故知尾張清洲を領有(50万石はあっただろう)。 従三位大納言に任ぜられ,天正16(1588)年の後陽成天皇の聚楽第御幸に際しては,尾張大納言と呼ばれる。 このあたりが,彼の絶頂期であろう。 ところが,止せば良いのに,小田原の役で後北条氏が滅んだ後,秀吉による駿河転封を拒否したため,大名としての地位を失い下野那須に追放。 さらに羽州秋田,予州今治と,北から南へ身柄を移される。 その際,剃髪して常真と号す。 秀吉の怒りが解けたのはその2年後で,信雄は御咄衆として召し出され,長男の秀雄は越前大野郡4万5千石の大名となる。 信雄も捨て扶持として,大和国内に1万7千石を貰っていたという。 そして,天下分け目の関ヶ原となる。 おそらく大阪城内に詰めていたからか,畿内に所領を持っていたからか,父子共に西軍に与してしまい,戦後処理で失領。 その後,秀頼に仕えて大坂城に出仕するも,東西手切れに際して大坂城を脱出。 そのまま二条城で家康に会い,東軍となる。 大阪の役後,上野・大和に5万石を領する。 寛永7年(1630)4月30日没,73歳。 ・・・という毀誉褒貶に満ちた人生だが,どうも父の血は全く受け継いでないようで,肝心なところでミスして判断・選択を誤っているような気もする。 しかし,乱世生き抜いたこういう人こそ,勝利者の一人ではないか,と思う。 能の名手としても知られ,茶人でもあったようなので(さらに年下の弟長益の方が千利休の高弟として知られているが),風流な人物でもあったようだ。 さらに,弟信孝は秀吉により自害させられ,織田宗家を継いだ秀信(信長の長男信忠の子,秀吉が擁立した三法師丸)は関ヶ原で西軍に属して岐阜城を失い高野山に蟄居・夭折,と悲惨な末路を辿ったのに対し,彼と前述の弟長益(有楽斎-うらくさい-東京の有楽町は彼の屋敷が地名の語源)のみが天寿を全うし,平穏な余生を過ごしたと思われる。 歴史小説の主人公にはなり得ないかもしれないが,血生臭い時代を生き抜き,何となくほっとさせられる生涯である。 子にも恵まれたようで,秀雄・高雄・信良・高長・信為・良雄の名が伝わっている。 信良の子孫は羽州天童藩(将棋の駒で有名),高長の子孫は大和柏原藩主として栄えた。 全くをもって慶賀に堪えない。 2006/3/6 為朝伝説「平家物語」のヒーローは当然義経でしょう。
宇治・瀬田の戦いから始まって,鵯越の逆落とし,屋島の奇襲,そして壇ノ浦の海戦と,鮮やかな武将ぶりは古来多くの人々に語り継がれてきました。 では,時代的にそれより少し古い時代を扱った(成立時期は同じ鎌倉期でしょうが,時代的に被るところもあります)「平治物語」は誰がヒーローでしょう。 これは,源義朝の長男である鎌倉悪源太義平と言っても良いと思います(頼朝は義朝の長男ではなく三男)。 特に,御所での戦いで清盛長男の重盛との一騎打ち(と言うより殆ど追い回していた)や,敗戦後京洛に潜んで清盛父子を執念深く狙って一度は見事に行方をくらましたり,最後は怨霊として雷になり,自分を斬った平氏の郎党を打ち殺したり,と凄まじい活躍ぶりを見せます。 ではさらに3年遡って,保元の戦いを描いた「保元物語」のヒーローは・・・? これは,源義朝の弟にして源為義の八男である源為朝を指折らねばなりません。 どうも,昨年来の義経ブームのせいかどうか,この二人の義経の先輩(一人は兄で,一人は叔父)が忘れ去られているような気がしてなりません。 今回は,一応今日が命日となっているこの為朝について簡単に述べてみたいと思います。 六条院の蔵人だった父為義は非常に子沢山で,元服した子だけでも10人おりました。 その中で八番目にあたる為朝の生涯は謎に包まれています。 その生涯をちょつと俯瞰してみます。 源家の惣領為義と江口の里の遊女の間に生まれた為朝は,幼い頃より性粗暴で父によって十三歳の折に九州へ追放されます。 ところが,並はずれた体躯で武勇に秀で,特に強弓を引く為朝は阿蘇大宮司の娘(滝沢馬琴の「椿説弓張月」によると白縫姫)を妻とし,付近の豪族を平らげ,あっという間に九州を席巻し,鎮西(九州の意)八郎と名乗ります。 朝廷では,その責任を父為義にとらせる為,為義の官職を解きます。 驚いた為朝は急ぎ上洛し,父に詫びます。 そうしているうちに,朝廷・摂関家の内紛に源氏・平氏も加わった保元の乱が勃発。 為朝は父に従い,兄弟たちと共に崇徳上皇-左大臣藤原頼長方へ参陣します。 対する後白河天皇方に馳せ参じたのは,源家では為義の長男で為朝の兄に当たる左馬頭義朝だけでした。 この時のエピソードは枚挙にいとまがありません。 兄義朝の夜襲を察知し,天皇方の籠もる白河殿を先に夜襲することを献策し,頼長によって一蹴される-予想通り義朝が夜襲してきたので,あわてて除目を執り行い為朝を任官させようと一転してご機嫌を取る頼長を皮肉ったり,兄義朝を射落とすことのできる距離にありながら,父と兄の密約(勝った方が命乞いをする)を深読みして敢えて義朝の首を狙わず,兜の横を狙ったり,と見事な武者ぶりを発揮します。 しかし奮戦空しく上皇方は敗れ,父や他の兄弟(除新宮十郎義盛-後の行家)が皆斬られたにもかかわらずしぶとく洛外に潜伏。 運悪く捕まってしまうものの,大赦に遭い,強弓が引けぬよう右腕の筋を切られ伊豆大島へと配流。 例によって,伊豆七島や伊豆半島近海を荒らし回った挙げ句,狩野介茂光や北条時政といった伊豆の武士団によって討伐され,八丈島で自害。 我が国の切腹第一号という説もあるそうです(大江山の酒呑童子を第一号とする説も有るらしいですが)。 どうです,かなり謎に満ちていませんか。 だいたい,たかだか十代の少年に九州が平定されるわけないですし,本当に伊豆の武士たちによって成敗されたのなら,公式記録が残っていても不思議じゃない筈です(まして1170年と言えば,清盛が太政大臣となって三年後,つまり平氏の全盛期なのですから)。 ですから,為朝の生涯を追うことは,伝承を調べることになってしまうのです。 これは,実に面白いというか,興趣があります。 と言うのは,伊豆七島は勿論,現在の横浜市内にまで為朝の足跡が伝わり,さらには奄美大島から加計呂間島,そして琉球列島といった南西諸島にまでその伝説が多く残されているからです。 つまり,1170年に八丈島で為朝は死なず,南西諸島へ向かったというのです。 そして,為朝の子舜天丸(すてまる)はやがて沖縄の尚王朝の祖ともいうべき舜天王となった,といった伝承まで生むに至りました。 ま,このへんまで来ると,さすがに17世紀初頭に薩摩の島津氏が行った琉球仕置を正当化する為のでっち上げか,とも思われるのですが,義経=チンギス-ハン伝説よりは正鵠を得ているような気がするのは私だけでしょうか・・・。 すっかり伝説上の人物とも言える為朝ですが,さすがに前述の「椿説弓張月」を始めとして,現代の作家も為朝伝説を書いています。 私は,子どもの頃児童書で読んだのが最初でしたが,個人的には「義経」でも名を連ねられていた村上元三氏の作品が面白かったです。 南条範夫氏のものもなかなかでした。 今度は,津本陽氏の作品を読んでみたいものです。 三町(約300mか?)も石を投げることができるという三町礫の喜平次を筆頭とする九州以来の郎党たちの活躍とも相まって,実に楽しめました。
2006/2/27 地底の森ミュージアム一昨日,久々に(1年半ぶり)市内南部にある「地底の森ミュージアム」へ。
お目当ては,企画展「世界遺産をめざす平泉」だが,何のことはない,招待券を2枚手に入れたからだ。 小中学生は学校で配られた「どこでもパスポート」を提示すれば,無料で見学が出来る。上の子は行き渋ったが,無料ということで強引に連れて行った。 企画展は,上記リンクの展示物が十畳ほどの部屋に展示されていただけで,「世界遺産をめざす」というふれこみと,立派な復元図の割には今ふたつの感を拭えず,当然のことながら十二世紀のものという屋根瓦やかわらけが展示してあったが,それのみで壮大な規模を誇る奥州藤原氏時代の黄金の都平泉を偲ぶには無理があった。 本来この地底の森ミュージアムは,市内南部に広がる沖積平野の中心部だっただけに,弥生時代以降水田が開け,弥生~古代~中世~近世各時代の水田の遺構が発掘されてきた富沢遺跡の2m地下から発掘された約2万年前の森林の遺構を保存するために創建された。 したがって,メインとなるのは地下展示室にある広大な森林の遺構ということになる。 薄暗い館内は静寂そのもので,誰も見たことのない石器時代への思いを紡ぐには絶好のロケーションである。 元来,仙台市南部-現在の太白区は遺跡が極めて多い。 これはすぐ南を流れる名取川の水利と,それによってもたらされた肥沃な土壌が影響していると思われる。 また,同区西部は小高い丘陵が走り,名湯として名高い秋保温泉まで続く。 そのあたりは,旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡も散見される。 縄文遺跡が山がちの地形に多いのは,狩猟との関連である。 獣は山に多いということだ(尤も,そうした定説を覆したのが,青森の三内丸山遺跡だが)。やがて時代が下ると,人々は平地での生活を営むようになる。 平坦な現在の太白区東部が古墳銀座の様相を呈していたのは当然であろう。 そんなことを思いつつ,展示室を出る。 館外は「縄文の森」と呼ばれ,当時の植物が生い茂っているはずなのだが,季節柄樹木は極めて少ない。 下記の画像からその様子や,コンクリートを打ちっ放しのミュージアムの外観がわかると思う。 久々に,過去への想いを馳せようと思ったが,家族連れでは無理だったようだ・・・。 2006/2/4 銀閣の日延徳元(1482)年2月4日,京は東山北麓の一郭にある寺域に於いて,さほど大きくない建物の建造が始まった。
寺の名は慈照寺。 そして,施主は何と室町幕府前征夷大将軍足利義政。 書院造り二層の建物は,前将軍の隠居所としてはあまりに小さい・・・。 そして,その建物の名は,権勢を誇った室町三代将軍義満の作らせた金閣になぞらえて,銀閣と呼ばれるようになる。 私が子どもの頃は,それぞれ「金閣寺」,「銀閣寺」という名で習った記憶があるが,厳密に言うとこれは正しくない。 金閣は鹿苑寺なる寺域の一郭にあるし,銀閣は前述の慈照寺の境内にある。 したがってそれぞれ,鹿苑寺金閣・慈照寺銀閣と呼称するのが正しい。 ま,それはどうでも良い。 初めてこの両寺を訪れてから,早いもので何と20年以上がたつ。 そして,偶然とはいえ(高校の修学旅行だから当然だが)同じ日にこの二つを見ることができたことと,金閣,銀閣の順で見ることのできたの幸運を今更ながらに思う。 金閣は,先の京都サミットを機に修築が為され,今まで以上に鮮やかで煌びやかになったようだ。 ただ,三島由起夫の「金閣寺」にあるように,戦後間もない時期に室町期のものは焼失しており,昭和期の再建になる。 で,焼失した確かオリジナルは,三層目のみに金箔が貼られていたのではなかったろうか・・・。 私が訪れたときは,二層目の金箔がけっこう剥がれかけていて,それが妙に趣があった。また,鹿苑寺の寺域が結構広く,さらに金閣の前に広がる池もかなり広大なので,スケールが大きい感じがした。 銀閣を訪れたのはその日の午後だった。 駐車場から歩いて程なく泉水があり,その畔にこぢんまりとただずんでいた。 周囲からは,金閣は金色なのに,銀閣は銀色じゃねーじゃねーか,という無知蒙昧甚だしい非難が上がった・・・(小中学校で何を勉強してきた,と引率の教師に呆れられていたが,もっともだ。今時小学生でも,銀閣は戦乱による財政難で銀箔を貼ることができなかったことぐらい知っている筈だ)。 「ここは,庭が素晴らしいんだ」 と,頭の禿げ上がった古文の教師が言っていたが,確かにその通りだと思った。 緑濃き東山の北端にあり,木々の鬱蒼たる東山全体を借景にしたようなその静謐なただずまいは,まさに侘び寂びの世界だと思った・・・。 八代将軍義政は,確かに政治的には愚昧だったかもしれず,応仁・文明の大乱を起こしたことを尻目にこの東山の一郭で遊び呆けていたのだろうが,このような素晴らしい文化遺産を後世に残したことだけでも,歴史に名を連ねる人物に相応しいのでは,とも思ったものだった・・・。 私が銀閣で唯一疑問に思ったのは,建物の前にある「向月台」なる白砂の塊であるが,ロケーションの良さと,西田幾多郎命名の「哲学の小径」を抜けるアプローチの素晴らしさ,そして,京都の最も京都らしい界隈と私が思ってきた東山の北端,という理由で,銀閣は私のお気に入りの場所となった。 それから幾星霜。 金閣はそれっきり採訪する機会を得ず,今も敢えて見るために時間を割こうとは思わないが,銀閣はその後自らの意志で二度訪れた。 最後に訪れたのは,蝉時雨の哲学の小径を歩いた平成初頭の盛夏。 以来十数年になるが,今尚,往事の姿のままであることを切に願う。 2006/1/18 「自称天皇」今から丁度60年前の1946(昭和)21年1月18日,敗戦の余韻くすぶる中,「天皇」を自称する者が現れました。
名古屋市で雑貨商を営み,戦災で焼け出された熊沢寛道(1889-1966)なる人物がそれです。 そうしているうちに,日本各地に「自称天皇」が次々と現れたとのことです。
愛知県の「外村天皇」に「三浦天皇」,岡山県では「酒本天皇」,鹿児島県は「長浜天皇」,新潟県は「佐渡天皇」,高知県の「横倉天皇」等々,何と19人の「天皇」が出現。 マスコミにも取り上げられました。 今となっては極めて胡散臭い話ではありますが,往事を知る方々にとっては懐かしいことでしょう。 彼等が自分が天皇としての正統性を主張した背景には,元日にGHQによって発せられた天皇人間宣言があることは疑いのないことでしょう。 それまで神格化され,神聖にして犯されざる存在であった天皇の権威が揺らいだことにより,我こそは天皇の正統と名乗る者が現れた,ということです。 さらに彼等に共通する特徴として,南朝の正統であることを主張した,という点があげられます。 鎌倉期に天皇家が二系統に分かれ,大覚寺統・持明院統をそれぞれ称しました。 鎌倉幕府は,両党が交互に天皇として即位することを決め,両統迭立の時代が始まりました。 その原則を自ら破り,正統性を主張したのが大覚寺統の後醍醐天皇で,元弘3(1333)年に鎌倉幕府を倒し,天皇親政である建武の中興を断行するも武士の勢力を糾合し持明院統の光明天皇を擁する足利尊氏に敗れ,吉野山へ逃れて南北朝の動乱が始まったことは周知の通りです。 やがて元中9(1392,北朝年号だと明徳3)年に後醍醐天皇の曾孫である南朝の後亀山天皇は,北朝方の後小松天皇に三種の神器を渡し,南北朝の合一を見たわけですが,それを潔しとしない南朝方の一部は吉野~熊野地方に籠もって足利幕府に対して頑強に抵抗を続けたということです(後南朝)。 一連の自称天皇たちが主張したのは,この南朝の後裔,ということです。 明治維新の際,新政府は天皇を神格化するために,南朝の正統性を主張しました。 その結果,楠木正成や新田義貞は正義の武士,足利尊氏は悪人という定説ができてしまったわけですが,これには大きな矛盾があります。 孝明-明治-大正-昭和と連なる天皇家は北朝系なのです。 つまり後醍醐天皇や後村上天皇の血は全く入っておりません。 ですから,当時の昭和天皇に対して熊沢寛道は,マッカーサー宛にGHQに嘆願書を持ち込んだり,裁判を起こしたりしています。 しかし,これがメディアの発達した現代で起こったら大変でしょうね。 マスコミが恰好の獲物と食いつき,大混乱が起きるかもしれません。 否,もはや誰も天皇の正統性に興味など湧かず,話題にもならないかもしれません。 ま,B級の歴史事象として,記憶に留めておくのも悪くないことかもしれません。 私の両親のように,昭和一桁生まれの方々に「熊沢天皇」と言うと,きっと懐かしがられるか,呆れられるかのいずれかでしょう・・・。 熊沢天皇に関しては,明治帝との入れ替わり説をどちらかのサイトで読んだことがあります。さらにはこんな本も面白いかもしれません・・・。 2005/12/19 大坂冬の陣歴史にifはタブーである。
しかし,例えば関ヶ原で毛利・吉川・長曽我部が東から攻めて,小早川が裏切らなかったら,とか,義経が高舘を,信長が本能寺を脱出できていたら,竜馬が近江屋の土蔵から出なかったら,真珠湾で空母を発見し南雲が第二波攻撃をかけていたら・・・,と考えると何となく心楽しいものがある。 歴史シミュレーション小説や漫画が次々に刊行される理由も頷けるというものだ。 そう考えると,1614(慶長19)年12月19日に停戦となった徳川対豊臣の最初の激突である大阪冬の陣こそ,まさにifがあったら,歴史が変わっていたやもしれない典型だと思う。 ご存知のように,大坂城を頼る豊臣方(西軍)は籠城策をとり,決定的な大勝利を得ないまでも,天下の名城を楯に,鴫野・福島等の局地的な戦いに勝利する。 大坂方は約5~7万,攻め寄せる徳川方(東軍)は約20万であったが,冬という季節と兵站が伸びたことから,苦しい戦いを余儀なくされた。 そこで,家康が考えた策は,大坂城本丸を射程距離の長い大筒や大坂湾のオランダ船から砲撃する,というものであった。 当時の大砲の命中精度がどの程度であったかは想像するしかないが,たまたま一発が天守閣に命中し,侍女が数人死傷したという。 これに肝を冷やしたのは,大坂城の実権を握る秀吉未亡人の淀殿(淀君)である。 まんまと,徳川方の策にはまり,停戦・和平を主張。 厳しい冬の戦に苦しんでいた徳川方にとって思うつぼであった。 後は,外堀のみを埋めるという和平の条件を無視して,内堀までも埋めてしまった徳川方の挑発に乗った豊臣方は,翌年4~5月の大坂夏の陣で壊滅してしまうのである。 しかし,この二度にわたる大坂の役に於いて,明らかに西軍にも勝機はあったと思う。 以下がその内容である。 大坂方の誘いによって続々と大坂城に入城してきたのは,かつて関ヶ原の戦いに敗れ浪人を余儀なくされた西軍の諸将たちだった。 筑前福岡(その前は豊前中津)の黒田家の家老だった後藤又兵衛基次,岩見重太郎の別名と言われる薄田隼人兼相,八丈島に流された宇喜多秀家の家老で切支丹の明石掃部頭全登,加藤嘉明の鉄砲大将だった塙団右衛門直之,前土佐24万石の太守だった長曽我部盛親,豊前小倉6万石だった毛利豊前守勝永,そして真田左衛門輔信繁(幸村)等である。 中でも,軍師として際立っていたのは,やはり後藤又兵衛と真田幸村である。 歴戦の勇者である又兵衛に対し,幸村は父昌幸とともに信州上田城にて関ヶ原へ向かう徳川秀忠の大軍を寡兵をもって防ぎ,ついには秀忠軍を関ヶ原に遅着せしめたという武勇の持ち主である。 因みに,天正年間にも真田は上田城にて徳川の大軍を打ち破っている。 天下に類無き強さ,と言われた三河武士を中心とする徳川軍を破ったのは武田信玄(天正2=1573年の遠州三方原の戦い)を除くと,真田しか居ない。 その幸村が,前年に配所の紀州高野山で無念にも没した父昌幸から授けられていた作戦があった。 まず,東軍が畿内に参着する前に大坂城を打って出て京都市中を占拠し,二条城と内裏を押さえる。
京都を先にとられた東軍は度肝を抜かれるであろう。 続いて京洛東部の山科盆地から逢坂峠を越え,近江へ進出し大津城・膳所城を占拠し瀬田川に防衛線を張る。 瀬田川を前に東軍を防ぎ,仮にそこが破れたら狭隘で大軍が通るに適さぬ逢坂峠で防ぎ,さらに退いて洛中に東軍を誘い込み殲滅させる。 全国の大名たちの集合体で寄せ集めでもある東軍を,これもまた浪人の寄せ集めだが短期間で訓練した真田・後藤の精兵で討てば大混乱は必至だ。 まさに,鎌倉から西上してくる足利尊氏の大軍を見事に防いだ楠木正成の軍略を思わせる作戦である。 しかし,この大胆不敵にして乾坤一擲の勝負に出る作戦は結局容れられなかった。 原因は幾つかある。 一つは,大野治長を筆頭とする豊臣家譜代衆が,大坂城を頼るあまり積極的な戦闘を認めなかったことである。 これは,淀殿が我が子秀頼を戦場に出馬させて危険に晒すことを厭ったこととも関係がありそうだし(敵将家康は70過ぎの老躯を押して大坂まで出陣してくるにもかかわらず),実戦を知らぬ彼等としては,出来る限り大規模な戦闘は避けたかったとも思われる。 今一つは,真田一族及び幸村に対する疑念である。 去ること14年前の関ヶ原の役に於いて,真田家は父昌幸と次男幸村は西軍に,家康の養女(本多平八郎忠勝娘)を妻とした長男信幸(後信之)は東軍に付いた。 額面通り父子の断絶ともとれるし,敢えて敵味方に分かれることで家名の存続を期したとも考えられる。 さらに,幸村には東軍からの誘いもあった(冬の陣後には,何と信濃一国という破格の待遇で東軍に誘われたらしい)。 したがって,大坂城に籠もらず野戦を主張する幸村に造反の疑念を大阪譜代衆が持たなかった筈が無い。 結果的に,西軍は幸村を疑うことで勝機を自ら逸したと言うべきだろう。 いつの世にも,現場のことがわからないくせに口を出して失敗する輩はいるもの,ということだろう・・・。 結局,父伝来の秘策を容れられなかった幸村は,大坂城の鬼門(方角は違うが)とも言うべき城南方の最前線に出丸を築き,そこで東軍の大軍を散々翻弄して駆逐する。 真田丸と名付けられたその出丸の存在も,敵に近い最前線であったことから,寝返り説がまことしやかに流れたとも言われる。 しかし,そんな風聞を全く意に介さぬ幸村は,前述のように東軍の大軍を相手に獅子奮迅の活躍をするのである。 夏の陣で豊家滅亡の際の幸村については,本年5月7日のエントリで述べた。 天王寺付近で一万二千の兵で十八万の東軍を何度か突き崩し,家康の本陣をも一時潰走せしめる,という寡兵での野戦としてはほぼ理想的な戦いをして越前藩士西尾仁左衛門に討たれる(手柄にせよ,と言って討たれたと云う)。 大坂落城後,こんな歌が流行ったと云う。 「花のやうなる秀頼様を,鬼のやうなる真田が連れて,退きも退いたり鹿児島へ・・」 大坂城(現在のものは徳川期のもので,豊臣時代のものは地面の下らしいが)に今も残る「真田の抜け穴」(大阪湾まで達せず,途中で行き止まりだそうだが)を実際に見てみたいものだ・・・。 (大坂の役に関しては,こちらの人物評が面白いです。) 2005/11/29 大発見・・・9/8の拙エントリで,わが国初の洋行者という栄誉を担った天正遣欧使節の少年たちですが,その中でもリーダー格であったと思われる伊東マンショ(1569-1612)の肖像画が,何とローマで発見されたということです。
保管者は何と当時のローマ法王グレゴリオス十三世(グレゴリオ暦で有名)の子孫の貴族とのことですが,いやはや驚きました。 使節のローマ滞在から420年たっているわけですから・・・。 この記事を参照いただくと,その肖像を見ることが出来ますが,和服とおぼしき服装であり,考証的にも信憑性があるとのことです。 しかし,この肖像画を見て,およそ日本人とはかけ離れた容貌であることに愕然とするのは私だけでしょうか・・・。 頭と胴のバランスがおかしいのはまあ仕方ないとしても,遣欧使節の少年たちの潜行機銃は,容姿端麗・頭脳明晰・身体壮健だった筈ですから,私なんか勝手に前髪立ちの美少年を想像してしまうのですが,ちょっとそのイメージからはかけ離れた感が強すぎます。 私が先入観に充ち満ちているのと同様,西洋人が有色人種を見る時は妙な固定観念にとらわれていたのかもしれません。 大分市内にある彼の騎乗像はまさに私のイメージ通りですし(ローマ市内のパレード時でしょうか),JR日南駅前に立つ洋装のマンショ像も凛々しい美少年ぶりを伝えてくれます。 そもそも,日向の大名である伊東氏の出であるマンショですから,血筋は正統です。 この伊東氏,先祖は源頼朝に討たれた伊東祐親入道(文字通り伊豆国伊東の領主。伊豆の東-即ち伊東)と言われていますので,平安末期から連綿と連なる在庁官人の家系で,藤原北家出身です。 祐親の息子たちが頼朝に仕えて,その結果として日向国の地頭職に任ぜられた裔なのでしょう・・・。 島津氏に圧迫され,豊後の大友宗麟を頼った結果,使節の結成となったわけで・・・。 しかし,時代の荒波に揉まれ,悲惨な末路を辿った遣欧使節の少年たちですが,調べれば調べるほど当時の世相や風物が浮き彫りになり,興味深いことしきりです。 ケンペル,シーボルト,ペリーといった江戸時代にわが国を訪れた西洋人たち誰もが知っていたと言われる彼等は,やはり当時の日本を象徴するに相応しい第一級の文化人だったと思われてなりません・・・。 2005/11/28 親鸞忌親鸞(1172-1263)忌。
ご存じ浄土真宗の祖であり,法然上人の高弟。 鎌倉期に成立した幾つかの新しい宗派は,既存の仏法の概念にとらわれない斬新な思潮を持ったものが多いと思われるが,この親鸞による浄土真宗は,親鸞没後200~300年余にして,まさに全国を席巻する勢いだったのだから驚く。 そもそも親鸞は,飽くまでも師祖たる法然の理念に沿って布教・説法を行ったということなので,彼自身に新宗派を開く意図があったかどうかは甚だ疑問とされる。 親鸞没後,弟子たちによって真宗として分派したのではないか,と目されているようだ。 そして,この浄土真宗-別名一向宗は,15~16世紀,即ち戦国時代に爆発的に全国に広まった。 まず有名な加賀一向一揆。 昨日の「義経」でも「勧進帳」をやっていたようだが,封建制成立以前から加賀国の守護大名だった富樫氏を何と一向宗の門徒たちが討ってしまい,加賀一国を一向宗の宗教国家としてしまった。 さらには,長島一向一揆(伊勢国)では信長の弟信興を自害させ,西美濃三人衆の一人氏家卜全を敗死させ,猛将柴田勝家をも負傷させた。 そして,信長に最後まで徹底抗戦した大坂石山本願寺。 毛利氏や紀州雑賀の地侍集団を味方に,10年に渡って信長を苦しめた。 また,三河一向一揆の鎮圧には,若き日の家康も手を焼き,危うく死にかけている。 さらに,上杉謙信も隣国の加賀一向一揆と度々戦火を交えている。 では,何故ここまで親鸞の教えが広がり,一国を支配するほどの勢力を持ち,天下人たちを苦しめたのだろうか・・・。 答えは簡単である。 仏教に関しては(否,も),全くの素人である私でも理由はわかる。 彼等一向宗の門徒たちは死を全く恐れないからである。 これは強い。 世の欲得が一切通用しないので,金品で釣ることが全くできないからだ・・・。 欣求浄土(あの世こそあこがれ)
厭離穢土(穢らわしいこの世は厭) をモットーに,南無阿弥陀仏・・・を唱える死兵たちの前には,さすがの信長・家康も手を焼いた。
そもそも,この一向宗の教えとは,人間の罪業が深ければ深いほど,阿弥陀如来は救いの手を差し伸べてくれるので,皆極楽往生できる,人間はもともと悪人であればあるほど良い心を持っており(悪人正機説),故に阿弥陀如来は救ってくれる,従って,感謝の気持ちから起こるのが南無阿弥陀仏・・・という訳である(これを他力本願と言うが,現代では,人を当てにして何もしないこと,という意味に取り違えられてしまい,しばしば門徒たちを不快にさせることがあるらしい)。 何という深遠な,そして暖かい教えであることか。 これでは,末法の世が来たような乱世においては,流行るのは当然であろう。 そして,同時期にやはり爆発的に流布したキリスト教が,信じなければ地獄へ堕ちる,と言っているのとは大違いで,どう考えても一向宗の教え方が人心を捉えることでは数段立ち勝っていると思われてならない。 これでは,信長も家康も手を焼く筈である。 信長-秀吉-家康の三人が,一向宗に対して,それぞれ三人三葉の手を打っていったことも興味深いが,それを述べるには紙面も尽きた。 不信心な私が,親鸞上人の教えを云々するのも難ではあるが,親鸞忌の今日,改めて一向宗の教えの深遠さに感じ入った次第である。 2005/10/29 「円空さん-ほほえみの仏像-」8月18日のエントリで予告したように,仙台市博物館の特別展「円空さん-ほほえみの仏像-」を見に行く。
ラスト2日を残すのみ,となってやっと時間を取ることができた。 しかも,入館料\1,100が職場に来た招待券をゲットしておいたためにロハ。 前回の「興福寺展」同様,実においしいお話である。 江戸初期の僧である円空(1632-1695)は,美濃国に生まれ,その生涯に12万体もの仏像を彫ったと言われている。 掘り始めたのが,得度したと思われる30歳を過ぎてからと言われているので,何と1日に10体ずつ彫った計算になるという。 彼の彫った仏像は「円空仏」と呼ばれ,木地をそのまま生かし,いかにも鉈で彫ったような荒々しいまでの素朴なタッチが顕著だが,その反面,どの作品も表情が穏やかで,微笑を浮かべているような感じがすることから,人々は「円空仏」のことをそのまま「円空さん」と,親しみを込めて呼んできた。 それにしても,北は北海道から南は愛知県まで,各地の「円空仏」が一堂に会すと実に壮観極まりない。 札幌-名古屋-仙台,と,旅に明け暮れた円空同様,彼の作品たちも産みの親と同じく,東海~蝦夷地~奥州と行脚した来たわけである。 美濃の人であった円空の作品が,濃尾参地方に多いのは当然だが,北東北や果ては蝦夷地にまで伝わっているのは,上述の通り北東北や蝦夷地にまで足を踏み入れたからに他ならない。 謎めいた半生の円空であるが,当時倭人の渡航が禁じられていた蝦夷地に行ったことはよく知られている。 何故にわざわざ厳しい自然の残る地域に行ったのであろう・・・。 それに,何故その作品は「ほほえみの仏像」と呼ばれるような柔和な表情をしているのだろう・・・。 円空の生まれた江戸時代初期は,言ってしまえば未だ安土桃山時代の余韻がくすぶる時代だったとも言える。 つまり,キリスト教の禁止や鎖国等,前の時代を否定しつつ幕府は体制強化のために多くの施策を試みた時期,と言っても良いだろう。 宗教政策としては,「寺請け制度」を設け,武士のみならず民衆をも寺の檀家とすることによりキリスト教より乖離せしめ,寺門の権威を揺るぎなきものとした。 ここからは,勿論私の推測・憶測でしかないが,後半生を民衆と共に生き,やがて後世に至るまで民衆のこころのよりどころたる円空仏を残した彼のことであるから,仏の教えと現世の権力,そして民衆への慈愛,といったことで悩んだ結果,全国行脚・民衆のための仏門・救済といった行動をとり,思潮を持ったのではないだろうか。 年譜を見ると,23歳にして寺を出遁とあるのも,悩んだ結果と思われてならない。 円空は寛文6(1666)年,35歳にして陸奥国弘前城下を追われ,さらに北の蝦夷地へ渡り,渡島半島に足跡を残した。 陸奥にせよ当時蝦夷地と呼ばれた北海道にせよ,厳しい自然と向き合わざるを得ない土地柄である。 そこに,円空の修験者としての姿と,過酷な自然環境に共生する人々に対する慈愛を感じる。 北海道・青森・秋田に円空仏が多く残されているのは当然なのかもしれない。 2005/10/24 ノルマントン号事件昨日の「足尾銅山鉱毒事件」と併せて,何か歴史教科書根多が続くようで恐縮です・・・。
尤も,「足尾事件」にせよ,本日のエントリである「ノルマントン号事件」にせよ,私が知ったのは,子どもの頃母親の話にあったことを断片的に記憶していただけであり,通史を学習した小学校~中学校では,この二つを学習した記憶は全くありません。 多分,省略・割愛されたか,不勉強な私が忘れてしまったか,いずれかでしょう・・・。 さて,「ノルマントン号事件」ですが,その後私が知ることになった概要は以下の通りです。 1886(明治19)年10月23日,横浜港を出港し神戸へ向かった英船籍の貨物船「ノルマントン号」には,64名の乗員・乗客が乗っていました。 内訳は乗員が39名(うち25名が白人で,あとは中国人,インド人),乗客である日本人が25名(女性が4名)です。 当時,外国船への乗船は違法でしたが,東海道本線が全通しておらず,25名は自らの意志で搭乗したということです。 しかし,翌10月24日午後7時過ぎ,紀伊半島沖でノルマントン号は座礁。 船長ドレークは退船命令を出します。 この時,救命ボートに乗って難を逃れたのは白人である英国人25名のみで,日本人25名を含む39名は見殺しにされます。 以上が「ノルマントン号事件」の概要ですが,もう少し冷静に見れば,もしかすると,船底にいる日本人に対し,英語でまくしたてても非常時ということには気付かず,甲板に上がろうとしたときは時既に遅きに・・・,といったことも考えられなくもないのですが,有色人種に対する差別がなかったとは絶対に言えない筈です。 何せ,白人だけが助かっているわけですから・・・。 一般に知られているこの漫画がすべて真実かどうかは別として,当時も今も日本人として屈辱的な事件であることには変わり有りません。 そして,神戸の英国領事館での領事裁判が行われ,船長ドレーク以下の英国人は全員無罪。(ドレークのみ再審で禁固三ヶ月という極めて寛大な刑罰) ドレークは,退船を命じたものの,死を尊ぶ日本人は受け容れなかったと主張したそうです。 おそらく,船底で言葉も事態を飲み込めずに沈んでいった,というのが実態ではなかったかと思われます。 この刑の軽さに,日本全国では憤懣の声が後を絶ちませんでした。 いくら何でも,39名もの東洋人をほぼ見殺し同然にしておいて無罪はなかろう,ということです。 しかし,日本における英国人の裁判権は英国領事に有る,という治外法権(この場合は領事裁判権)が,1859(安政5)年に幕府と米英露仏蘭の間で結ばれた日米修好通商条約に明記されており,関税自主権をも持たないこととともに,不平等条約の骨子を成していました。 当時は世に言う「鹿鳴館時代」で,外相井上馨の提言で,諸外国に近づこう,という言わば極端な欧化政策がとられていたのですが,世の中の気運は一気に不平等条約改正へと高まっていったことは容易に想像できます。 欧米列強にすれば,当然自分たちが有利であるこの条約の改正など微塵も必要ではないわけですから,これに関わった人々の苦労は並大抵のことではなかったことでしょう。 2005/10/23 足尾銅山鉱毒事件以前,国鉄・JR乗り潰し,などということに躍起になっていたことがある。
たまたま所用で上京した際など,敢えて遠回りをして帰宅したりしたものだ。 まだ10代の頃,わざわざ八高線~両毛線(八王子→高崎→小山)乗り潰しを企てたことがあったが,途中群馬県の桐生で下車。 ついでに足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)の足尾まで行ってみようと考えた(終点の間藤まで行かないと「乗り潰し」は完結しないが,間藤まで行く列車が殆ど無かったので完乗-乗り潰しは諦めた)。 途中,列車交換のため水沼で改札の外に出る機会を得た以外,だだぼけーっと外を見ていた記憶しかない。 終点の足尾が近づくと,驚いたことに周囲の様子が変わり始めた。 山肌に木が全く見られなくなり,山は皆所謂はげ山のようになっていた・・・。 もう随分前のことなので,はっきりと覚えていないが,確かなことは,山間の鄙びた停車場を想像していた私の認識が甘かった,というより,足尾を訪れるのに際し,ここがかつて東洋有数の銅山であったことを知ってはいたものの,迂闊極まりないことに,今なら小学校の教科書にも載っている「足尾銅山鉱毒事件」及び田中正造に対して全く知識を持ち得なかった,ということである(今も,以下に述べることぐらいしか知らないが・・・汗)。 足尾銅山の歴史は江戸時代初期まで遡る。 古川鉱業によって採掘及び精錬が盛んになったのは,維新後だろう。 前述の通り東洋有数の銅山として,フル操業する。 当然のことながら,鉱山につきものの鉱毒ガス(主たる成分は亜硫酸ガスらしい)によって周囲の山々の木が立ち枯れていく(周辺の幾つかの村が廃村になっている)。 山がはげ山になると何が起こるか? まず考えられるのは何と言っても洪水だ(飲み水の枯渇や最終的には酸素不足を誘発する)。 19世紀末には未曾有の洪水が,渡良瀬川沿岸を襲った。 渡良瀬川は,現在埼玉県の栗橋で利根川に合流するが,当時の洪水被害は,利根川下流の霞ヶ浦沿岸や,江戸川下流の千葉県の行徳あたりにまで及んだらしい(後者は殆ど海だ)。 次に,鉱毒による被害は,鮎の大量死となって現れた。 さらに,渡良瀬川から直接取水している田や,洪水で押し流された土砂の堆積した田では稲が立ち枯れるという現象が起きた。 度重なる鉱山による被害に農民たちは政府を相手取って運動を開始。 その中心となったのが,先に述べた田中正造である。 田中は栃木県選出の衆議院議員であったが,1901(明治34)年10月23日,職を擲って自ら農民運動に投じた。 12月10日には明治帝に直訴。 政府の方針に反対して,廃村となる谷中村に住んだり,精力的に講演を行ったりしている。 現在,群馬・栃木・埼玉・茨城四県の県境付近に広がる渡良瀬川遊水池は,当時の政府の方策として設けられ,やがて渡良瀬川沿岸に堤防が築かれていく。 埼玉側の住民の反対により,栃木県側の下都賀郡谷中村が遊水池として廃村になることが決定。 反対する田中は,終生ここに住み続けたらしい。 廃村と共に政府は住民の移住を支持。 近隣や栃木県内の各市町村の他,何と北海道東部,オホーツク海沿岸の 常呂郡佐呂間町 にまで移住させられた者もおり,同町に残る「栃木」の地名は,当時の名残だという。 全く関係ない話だが,今日は全然選挙戦が盛り上がらない県知事選(及び県議補欠選)の投票日だった。 先の「小泉劇場」同様先が見え見えだが,前回と違って投票所には人影が全くまばらであった。 前回異例の70%を超えたという投票率たが,地域の有権者数は同じなのにこの為体。開票結果同様気が重くなることこの上ないが,私財も官職も擲って農民運動に投じた田中のような政治家は,もう二度と現れないのだろう・・・。 2005/10/13 新大陸発見-コロンブスのもたらしたもの,その二新大陸を発見した(そして,インドだと思っていた)コロンブス一行は,多くのものを西欧にもたらします。
まず煙草。 パイプによる喫煙の習慣は西欧にはないものでした。 また,新大陸での喫煙は祭事的な意味合いを持ち,部族の首長が行う神聖な儀式的であったと言われています。 コロンブスが,友好のしるしとして新大陸の文物を原住民に与えると,彼等は返礼として煙草の葉をくれたそうです。 当初は医薬品として扱われた煙草ですが,16世紀には嗜好品としてアジアにも広がりを見せ,南蛮人の渡来と共にわが国にも伝来。 17世紀初頭にはスペインの使節が徳川家康に煙草の種を献上した記録が残っているとのことです。 そして,新大陸発見と共に各国は覇を競うように大西洋へ乗り出していきます。 所謂「大航海時代」の到来です。 ・・・と書くと,如何にも雄大なロマンを感じるのですが,それはあくまでも西欧人の立場としてのことであり,現地で平和に暮らしていた人々にとって彼等は簒奪者にして侵略者でもあったわけです。 ペルーを中心に栄えたインカ帝国はピサロに,メキシコに栄えたアステカ文明はコルテスにそれぞれ滅ぼされます。 現地の人々に対して彼等が行った行為は,現代のような欧米主導の世界では決して明らかにされませんが,少なくても対等な人間として接したものではないことだけは事実です。 やがて,欧州諸国は次々に新大陸を収奪していきます。 つまり,16世紀から20世紀まで連綿と連なる帝国主義を誘因することとなった,ということです。 日本がその対象にならずに済んだのは,封鎖的で保守的と思われる鎖国政策のおかげだったとも言えるかもしれません。 そして,コロンブスがもたらしたものには,何と梅毒があります。 コロンブスの帰港後,船員たちによってバルセロナで流行しましたが,2年後フランス王シャルル八世がイタリアに侵攻した際,従っていたスペイン人の傭兵からナポリで蔓延し,やがて東洋諸国にも広がったということです。 おそらく,東方航路によってゴアとかマカオに上陸。 そして,当時出没していた和冦によって九州にもたらされる。 永正9(1512)年には関東で流行ったという記録もあるそうで,何と1543年のポルトガル船の種子島漂着より30年も早く,つまり鉄砲やキリスト教の伝来や西洋人の来日より先に梅毒がわが国に上陸したということになります。 煙草が100年かかって伝わったのに対して,梅毒は何と20年で伝わったとというのは驚きですが,何にも優るナニの力とでも言うしかありません・・・(脱力)。 煙草に帝国主義,そして梅毒,と,ろくなものをもたらさなかったコロンブスですが,彼の名誉のために言っておきますと,彼は多くの植物を旧大陸へ持ち帰りました。 例えば,ジャガイモ,サツマイモ,カボチャ,トウモロコシ,南京豆,トマト,イチゴ,パパイヤ,唐辛子等がそれです。 このように歴史には裏表,というか光と陰があるものなのです。
短絡的な見方や,単純な善悪論では語れないものがある,と言っても良いでしょう。 そのような言わば「教科書に載っていない歴史」を知ることもまた,歴史の妙味と言えるかもしれません・・・・・。 尤も,旧大陸から初めて新大陸に渡ったのはコロンブスではなく,もっと遡った時代に欧州を荒らし回ったバイキングであったと言われています。 勿論,彼等に新大陸発見という認識がどの程度有ったかは,想像の域を出ませんが・・・。 2005/10/12 新大陸発見-コロンブスのもたらしたもの,その一アメリカ合衆国の真南。
カリブ海に突き出たフロリダ半島にあるリゾート地として有名なマイアミから200kmの海上にキューバがあります。 かつては,第三次世界大戦の危機とも言われた「キューバ危機」と,共産主義を標榜する独裁政権であるカストロ首相の存在もあって,「アメリカの目の上のたんこぶ」と言われて久しくなります。 南にジャマイカ,ハイチ,ドミニカなどの大アンティル諸島,北にバハマ諸島を控えたこの一帯は,西インド諸島と呼ばれています。 はて,アメリカに何故インドが?? そう言えば,北米大陸の先住民をインディアン,南アメリカの先住民をインディオと呼びますが,これはどちらも「インド人」の意味ですね。 これに関しては,ご存じの方も多いと思います。 1492年10月12日,スペイン王の援助を得たイタリア人クリストファー・コロンブス(1451-1506)が新大陸-アメリカ大陸を発見しましたが,何もコロンブスは新しい土地を発見することを目的に,当時断崖絶壁で滝のように船もろとも海水が落下している,と言われた大西洋を横断したのではありまらん。 彼はあくまでもインドを目指したのです。 ですから,新大陸を発見した歴史上の英傑とされるコロンブスですが,悲しいことに,と言うかおめでたいことに,彼は自分の発見した新大陸を死ぬまでインドだと信じていたそうです。 ですから,コロンブスが発見し上陸した地に今でも「インド」の名前が付き,原住民はインド人-即ちインディアンと呼ばれてきたわけです(混乱を防ぐため,アメリカインディアンと呼んでいるようですが・・・)。 当時のインドはムガール帝国の全盛で,財宝や富に溢れていましたし,さらにそのインドの東には黄金の国ジパングがある,とマルコ・ポーロは著書「東方見聞録」に記しました。当時の欧州の強国,スペイン,ポルトガルはいち早く,それに反応しました。 古来,欧州とアジアを結ぶ通商ルートは,何と言っても有名なシルクロードがありました。西安や大都(北京)を起点とするならば,終点はコンスタンティノープル,若しくはローマになりますが,所謂南蛮人たちは陸路ではなく,海路を選びました。 現代の我々は地球儀なり地図なりを見て,欧州からインドへの最短ルートは,陸路なら東欧から中東を経て東進するシルクロードが,海路なら地中海を東進しスエズから紅海~アラビア海へ出る航路が最短であることがすぐわかります(尤も,スエズ運河の開通は19世紀後半のことですが)。 コロンブスと並び称されるヴァスコ・ダ・ガマ(1469?-1524)は,アフリカ大陸の海岸線に沿ってインド洋へ出る東方航路を開拓しました。 でも,例えばイタリアなりスペインからインドへ向かうなら,地中海を横断して黒海に入り,現在のトルコ,ウクライナ,グルジアあたりから陸路をとれば,最短でインドへ向かうことが出来ます。 喜望峰を回ったり,ましてや後にマゼランの艦隊が行ったように南米大陸の最南端を回ったりするよりはるかに近いわけです。 では,何故彼等はそれをしなかったのでしょう。 勿論,大西洋や地中海を控えた南蛮諸国が海運国家だったから,と位置づけても良いでしょうが,実はシルクロードを通れない大きな理由があったのです。 つまり,当時最強を誇ったオスマン帝国の存在です(かつてはオスマントルコと呼びましたが,近年は使われていないようです)。 特に15~16世紀にかけてはその版図が最大で,北アフリカからアラビア半島北部と小アジア半島(つまり現代のトルコ),さらには東ヨーロッパとバルカン半島のほぼ全域を支配していました。 コロンブスの時代より半世紀前には,1000年以上続いた東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルを攻略してローマ帝国にとどめを刺し, さらに下って1529年には第一回ウィーン包囲,というまさに全盛期でありました。 ですから,インドを目指す南蛮人にとって,陸路には最強を誇るオスマン帝国が立ちはだかっており,やむなく海路をとらざるを得なかった,という訳です。 勿論,無謀とも言われた大西洋を西進を敢えて行ったコロンブスたちの勇気を貶めるつもりはないのですが,実は彼等は欧州のみならず地球上に多くのものをもたらします。 実はそれらについて述べたかったのですが,随分長くなってしまったので続きは明日・・・(終わるのか???) 本日は新大陸発見の日であると同時に,芭蕉忌(時雨忌とも云う)でもありました。 迷った挙げ句,今年は新大陸発見根多でいきましたが,予想外に長くなりそうで焦っています。 明日完結させる予定ですが,できれば三連作は避けたいので・・・。 (オスマン帝国に関しては,塩野七生著「コンスタンティノープルの陥落」と「レパントの海戦」が読みやすく,実に面白かったです・・・。) |
|
|